社員がゆく赤穂義士のまちに行きました

赤穂義士のまちに行きました

2016年の大晦日を兵庫県赤穂市で過ごしましたっ!

赤穂市は兵庫県の西南、岡山県との県境の位置するところにあります。実は、ここに来たら、もう瀬戸内海国立公園に入っています。
この瀬戸内海国立公園は1934年に雲仙国立公園、霧島国立公園とともに、日本初の国立公園に指定された場所です。その景色の綺麗さと自然の豊かさを想像できますね。

赤穂市と言えば、まず思い浮かぶのが、のちに忠臣蔵として語り伝えられることとなる「赤穂事件」です。駅舎の中にも「忠臣蔵」が大きく書かれています。

毎年12月14日に、赤穂市最大の催しとして赤穂義士祭が行われています。今回私は行けなかったですが、祭りの際にリリースされた赤穂まちあるきアプリを使って、今日は赤穂市をたっぷり見学しようと思います!

赤穂

昼過ぎ赤穂市に到着です。限られた時間で、できるだけたっぷり見学したいので、まずはアプリから寄りたいスポットを選びます♪
今回はこの「忠臣蔵定番」コースにしますっ!

 

「赤穂事件」と「忠臣蔵」

ここでまず「赤穂事件」と「忠臣蔵」のストーリーをもう一度読み返してみます。

赤穂事件というのは、元禄15年12月14日(1703年)江戸での仇討ち事件です。
場所は現在東京墨田区両国本所松坂町公園にある「吉良邸」、播州赤穂浅野家の浪士四十七名が、高家旗本の吉良上野介の屋敷に討ち入り、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭に代わり、吉良を討ったという話です。

事件の発端は、元禄14年3月14日(1701年)に、江戸城中「松の廊下」において刃傷沙汰でした。 勅使饗応の儀式の最中、接待担当の大名で播州赤穂五万三千石の浅野内匠頭が、儀式儀礼を教える先生役の吉良上野介に「この間の遺恨覚えたるか」と叫びながら切りつけたのです。
切りつけた原因ははっきりされていなく、諸説ありますが、致命傷とならず吉良は助かり、浅野は取り押さえられた。
その後、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂の城は没収、家臣は失職離散しましたが、吉良上野介はあくまでもお咎めなしでした。喧嘩両成敗の鉄則は当時用いられなかったのです。

浅野のみ刑に処せられた事に浅野家家臣達は反発しました。元禄15年12月14日(1703年)、大石内蔵助率いる総勢四十七名は殿様の命日に吉良邸に討ち入ります。
激闘2時間の末、見事、御首を挙げた四十七士は、主君の眠る高輪泉岳寺まで凱旋し、墓前に首級を供えました。引き上げの最中には、四十七士のうち一人(寺坂吉右衛門)がどこかに消えているが、寺坂を除いた四十六人は、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従って全員切腹しました。

その後、赤穂の四十七士は、主君に対して忠義の士であったとして赤穂義士と呼ばれるようになり、現代へと語り継がれています。

 

播州赤穂駅

播州赤穂駅の階段でも、赤穂市立歴史博物館蔵の「誠忠義士伝双六」が貼られていてっ!ここで写真を撮る観光客も時々います。

赤穂

駅から出たすぐ、「忠臣蔵」で有名な赤穂藩士大石内蔵助の銅像が駅前に建っています。台座には「義魂」が書かれていて、右手に采配を持っています。

忠臣蔵は、浅野内匠頭の刃傷から47年後に、赤穂事件を基にした作られた人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』のことです。 同じ年の12月には歌舞伎にもうつされ、大人気を博し、本作以降、赤穂事件を扱った創作物は忠臣蔵ものと呼ばれています。

赤穂

 

息継ぎ井戸

最初のスポットは、息継ぎ井戸です。

江戸での浅野内匠頭による刃傷事件の第一報を知らせるため、元禄14年3月14日の夕刻に赤穂藩士、早水藤左衛門、萱野三平が早かごで江戸を出発して、3月19日の早朝に赤穂城下に着きました。
155里(約620km)の行程を4昼夜半早歩いた両人は、城下に入りこの井戸の水を飲んで一息ついたといわれているので、息継ぎ井戸と呼ばれています。

赤穂

井戸と言いますが、実際は上水道の汲み出し枡です。この古い上水道は、1616年に姫路城主の池田家が作り、その浅野家が拡張しました。

赤穂

 

花岳寺

ここからちょっと西南の所に、花岳寺というお寺があります。
花岳寺は赤穂藩祖浅野長直によって正保2年(1645)建立されました。元禄赤穂事件後は歴代藩主の菩提寺になりました。

浅野家の宝物館、千手観音尊像・四十七士の彫刻を安置する義士木像堂、更に義士墓所があります。
墓所の中央は主君・浅野匠頭長矩公、右に大石内蔵助良雄、左に大石主税良金、周囲を右側から格式順に四十五士の墓が並び、遺髪がおさめられていると伝えられています。

赤穂

更に赤穂城の方向に進むと...お店の前でも赤穂義士の模様の像がっ!

赤穂

赤穂城の大手隅櫓が急に目の前に現れました!

赤穂

 

赤穂大石神社

赤穂大石神社に到着です。

この神社は、大正元年(1912)大石内蔵助の良雄はじめ四十七士と萱野三平を主祭神として創建されました。
境内には国史跡の大石良雄宅跡長屋門や庭園、義士ゆかりの武具・書画を展示している義士宝物殿があります。

赤穂

神社に入るまでの参道には四十七士の石像が並んでいます。四十七士と言っても、石像自体は23台です。端から当時の身分の低いものから順に並んでいます。 各浪士の像には寄贈者の名前が記されてます。浪士の子孫の方と思われる同姓の方のお名前も多いです。

四十七士はどのような人かは、アプリの「赤穂義士とは」の中でも勉強できます。四十七士名鑑から、赤穂「忠臣蔵」検定忠臣蔵雑学問題など、様々なコンテンツがあって、観光しながらちょっと気分展開するもの面白いです。

例えば、検定問題の中、「赤穂浪士が引き上げる際、隅田川を渡る時通った橋を何といいますか」という質問があります。新橋、両国橋、永代橋など、東京の地理に詳しい人から見ると、想像が膨らみますね。

赤穂

境内に、義士発祥の地と掘られた石碑が有ります、これは、義士の遺徳を偲び、その功績を伝えるものです。

赤穂

ここの絵馬にも、「大願成就」と書かれています。赤穂四十七士が不慣れな江戸で、一年十ヶ月に及ぶ窮乏生活に耐えて主君の仇を討ち大願を成就したことに由来します。

赤穂

 

赤穂城

赤穂大石神社のすぐ隣には赤穂城です。大晦日なので、残念ですが城門は閉まっています...

赤穂城は浅野長直によって慶安元年(1648)から13年の歳月をかけて築かれた、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城です。 藩の家臣で軍学師範の近藤正純が設計し、そのうち二之丸門虎口の縄張は、当時の著名な学者であった山鹿素行の手が加えられたと伝えられています。

赤穂

赤穂

水堀がとても綺麗!

赤穂

城地は三方を山に囲まれ、東に千種川、南は瀬戸内海に面し、清水門の南にある船入は船が出入りできるようになっていました。
ここは水手門跡です。

赤穂

今回は城門が閉まっているので、中に入ることが出来なかったけど、実はアプリを使って、ARで昔のまぼろしの赤穂城を360°で回転移動させて見ることができます。

赤穂

 

赤穂市と水

赤穂市は赤穂義士だけではありません。

実は、古くから塩田が栄え、生産されている塩は「赤穂の塩」として全国に流通しています。 また、ここは、名水百選に選ばれている清流の千種川が流れています。豊富な水系に恵まれた赤穂市は水道料金が国内で一番安いだそうです。 400年前(1616年)に敷設され、現在でも市内の随所にその遺構が残る赤穂上水は、神田上水(東京都)福山上水(広島県)と並んで日本三大上水道(江戸三大上水道)のひとつに数えられています。

赤穂市に来るとき、もし時間がありましたら、ぜひ千種川まで足を延ばしてくださいねっ!

赤穂

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