社員がゆく倉敷市の「日本遺産認定記念シンポジウム」に参加しました!

倉敷市の「日本遺産認定記念シンポジウム」に参加しました!

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この度の西日本豪雨災害で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被害に遭われた皆さまへ、心よりお見舞い申し上げます。 また、被災地の一日も早い復旧を祈念いたします。

岡山県倉敷市では、昨年の4月に日本遺産として「一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」のストーリーが認定されました。この記事では2月に開催された倉敷市の「日本遺産認定記念シンポジウム」に参加したレポートとともに、先日美観地区の文化財を巡る機会がありましたのでまとめてみました!

「日本遺産認定記念シンポジウム」の発表内容は以下の通りです。

 

  • ■ 桧山うめ吉氏(くらしき観光大使・俗曲師)によるオープニング
  • ■ 大西啓介氏(文化庁文化財部記念物課長)による講演「日本遺産の現在」
  • ■ 丁野朗氏(東洋大学大学院客員教授)による基調講演「文化資源の活用とその手法」
  • ■ 丁野朗氏・川口武彦氏(水戸市世界遺産推進室長)・真鍋寿男氏(児島ジーンズストリート推進協議会長)によるパネルディスカッション「日本遺産をまちづくりに活かす」
  • 日本遺産認定記念シンポジウム

    まず大西さんの講演では、日本遺産の仕組みから創設にいたった背景のお話から、現状、そして将来にむけてどうあるべきかなどのお話などがありました。

    そもそも日本遺産って?

    地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定するものです。
    ストーリーを語る上で欠かせないのが有形や無形の様々な文化財群です。この魅力のある文化財群を地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより、地域の活性化を図ることを目的としています。

    要するに日本遺産とは日本を象徴する100の物語なのです。
    これまでの文化庁は、文化財を保護することを第一に考えてきましたが、近年活用を重要視するようになってきたのです。
    詳しくは文化財をめぐる文化庁や博物館の動向についてまとめているのでこちらをご確認ください。

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    その文化財の活用政策の一環が、「日本遺産 *1」認定事業です。

    日本遺産ストーリーを地域活性化にどう活かすのか。丁野さんから各地の活用手法の事例を紹介しながら、倉敷の可能性と課題についてお話がありました。

    まず倉敷市の認定された「一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~」についてどのようなストーリーとなっているのか、丁野さんは日本遺産のストーリーは起承転結でみることができるとお話されていました。
    それではみていきましょう。

    起 「始まりは一輪の綿花」

    倉敷周辺はかつて「吉備の穴海」とよばれる一面の海でした。近世以降になってから干拓によって陸地へと姿を変えていきます。もともとが海だったこともあり、米作りには適さず、綿花やい草の栽培がされるようになり、織物生産を支えました。

    承 「綿花生産が育んだ富」

    明治以降になると民間紡績業の育成が奨励されるようになり、国内初の民間紡績所である下村紡績(児島)、玉島紡績(玉島)が開業します。明治22年には英国式最新機械を備えた倉敷紡績所が創設されます。繊維産業が栄えるようになり、地域が大きく発展していきました。

    転 「伝統を守りながら発展を続けるまちへ」

    大原孫三郎は紡績業で得た富で文化・社会・福祉産業に着手し、現在の倉敷市の文化的な基礎を確立しました。大原美術館など西洋風の建築が建てられました。その後倉敷民藝館、倉敷考古館が設立されました。倉敷紡績跡地はアイビースクエアが開業しました。

    結 「和と洋が織りなす繊維と町並みの倉敷物語」

    倉敷は世界に誇る「日本一の繊維のまち」として成長し、その発展の中で形作られた伝統的な商家群と明治以降の洋風建築が調和する町並みを創り出す基礎となりました。

    このようなストーリーが日本遺産に認定されていますが、丁野さんは顧客ごとに「刺さる」ストーリーづくりの必要性が大切と話されていました。ストーリーの活用として、顧客の属性(ペルソナ)ごとのサブストーリーや、個々のエリアの属性や魅力を発掘したエリアごとのサブストーリーづくりが重要のようです。倉敷市の場合だと、先ほど紹介した全体のストーリーをもとに、倉敷、玉島、児島などそれぞれのエリアごとに合わせてサブストーリーを作っていく必要があると話されていました。
    また倉敷の認定されたストーリーは繊維産業を基軸にしたものですので、産業資源をどう活かすのか、繊維産業の振興をしつつ、地域産業をさらに盛り上げ、地域ブランド力の創出を目指していく必要があると話されていました。

    実際に倉敷へ足を運んでみました!

    まずは倉敷を代表する観光スポット「美観地区」!

    倉敷美観地区

    美観地区の真ん中を流れるこの川、実は倉敷の繁栄を支えたとっても大切な運河なのです。江戸時代の倉敷は、この川を利用した商業の町として栄えました。
    「倉敷」のもともとの意味は、年貢を一時保管する倉庫という意味です。物資が多く集まる場所を、倉敷地と呼んでいたのです。美観地区の中心を流れる運河は、物流の要となっていました。

    倉敷美観地区に集中する、白い壁の蔵は、江戸時代に作られたなまこ壁が特徴です。大正期に建てられた建物も混在しています。倉敷には、町の中心部に、江戸から明治・大正にかけての古い建物が、500以上も残されています。

    倉敷美観地区

    なまこ壁とは、黒と白の幾何学模様が特徴で、壁面に平らな瓦を並べて貼り、継ぎ目に漆喰をかまぼこのように盛り上げて塗る技法で作られた壁のことです。

    鶴形山の山頂にある阿智神社に行くと、海側にも山地が広がっている、山に囲まれた平野であることがわかります。

    阿智神社

    倉敷は実は戦国時代以前は、平地の大半は遠浅の海だったのです。干拓による新田開発で、徐々に土地を広げてきた歴史があります。新田開発を進めたのは、商人で当時のお金持ちでした。新田開発によってさらに財を成し、地主を兼ねた豪商となっていきました。
    なぜ商人が自由に新田を開発できたのかというと...倉敷アイビースクエアにヒントがありました。

    倉敷アイビースクエア

    倉敷アイビースクエアは紡績工場の跡地です。工場の敷地内には、ある石碑が残っています。

    倉敷アイビースクエア

    「代官所跡」かつて紡績工場内には代官所が立地していたのです。
    倉敷はもともと幕府直轄の天領であり、代官所が置かれていました。武士の数が少なく、商人に権限を与えることで、商人の協力を得ながら、領地の支配をする方法がとられていました。倉敷の代官所では、商人に新田開発を認めていたのです。

    その後、紡績工場はなぜ倉敷で作られたのか。倉敷はもともと海だった土地を干拓してきた歴史があります。実は、塩分を多く進む倉敷の新田には、塩分にも強い綿花が植えられたのです。綿花を原料に、糸を作るための工場として紡績工場ができたようです。その後、繊維産業が栄えるようになり、倉敷が大きく発展し、西洋風の建築が建てられました。

    倉敷アイビースクエア

    この建物は大原美術館で、大原孫三郎が設立しました。大原孫三郎は、倉敷紡績所の初代頭取の孝四郎の息子で、紡績業で得た富で、倉敷市の文化的な基礎を確立しました。こちらの大原美術館の建物はギリシャ式の建築です。

    倉敷アイビースクエア

    一方大原美術館の分館は、城郭のデザインが特徴的です。1960年代高度経済成長期の日本で、古い建物がたくさん取り壊される中で倉敷は積極的にこの古い街並みを守っていく取り組みがなされました。それが垣間見えるのがこの分館なのです。

     

    *1
    「日本遺産(Japan Heritage)」について

     

    アプリで倉敷を旅しよう!

    今回は倉敷の美観地区を中心にレポートしてきました。こちらのアプリで日本遺産の紹介や各ポイントの詳しい説明ものっています。倉敷へ足を運ぶ機会がございましたら、ぜひ利用してみてください。

    日本遺産倉敷ナビのホームページはこちらから!

    日本遺産倉敷ナビ

     


     ▼この記事を書いたひと

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    観光・インバウンド担当
    中村 萌

    大学では、考古学を専攻していました。趣味は博物館と史跡めぐりです。
    学生時代に47都道府県すべてを旅行した経験があります。

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