つい最近、2022年の大河ドラマに「鎌倉殿の13人」と公表されました。
脚本は「新選組!」「真田丸」の脚本を務めた三谷幸喜で、主人公の北条義時は小栗旬が演じることになります。
注目性の組み合わせで、今から楽しみですね。
北条義時の運命は流罪人・源頼朝と姉・政子の結婚をきっかけに大きく変わり、頼朝の下で活躍をはじめました。
後ほど、頼朝は義時も含む十三人の家臣団の支えの元で天下を取り、鎌倉幕府将軍になりました。
頼朝死後、義時は将軍家の内部紛争に巻き込まれ、勝ち抜け、鎌倉政権を手に握った...
主役は北条義時のようですが、今回はタイトルの「鎌倉殿」に注目しましょう。
「鎌倉殿」と言えば、まずは鎌倉幕府の初代征夷大将軍の源頼朝のことですね。
源頼朝が創設した鎌倉幕府が神奈川県の鎌倉市で、伊豆にも多くのゆかりの地が残されています。知っている人が少ないのかもしれませんが、実は頼朝は愛知県名古屋市出身です。
(名古屋市民として少し誇りを感じますよね。)
今回は、愛知県にある頼朝のゆかりの地をご紹介します。
源頼朝の母は、熱田神宮大宮司藤原季範の娘由良御前です。頼朝は、熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸に生まれました。
現在誓願寺になっている所ですが、残念なことに入り口のところしか見学できません。
龍泉寺山門の脇にある「亀井水」は、源頼朝の産湯の井とされています。
妙音通駅より徒歩3分の、静かな曹洞宗の寺院です。
源義朝の三男として生まれた頼朝は母親の家柄が高いため、義朝の後継者として重視されていました。
三種の神器の1つである草薙剣を祀る神社として知られる熱田神宮は、昔でも今でも国家的な崇拝を受けています。
また、『義経記』によると、熱田神宮は源義経の元服の地だそうです。(『平治物語』では東山道の鏡の宿が源義経元服の地と記載されていますが)
こんなに源氏にゆかりがある神宮なのですね。
愛知県知多郡美浜町の野間にも、頼朝の父の源義朝に関連するスポットがあります。
あんまり気分の良い話ではないですが、平治の乱に敗れた源義朝は、東国で再起を図るため京を脱出し、裸足で尾張国野間まで逃げていて、家来の長田忠致親子に身を寄せた際、長田の裏切りに遭い殺害されました。
義朝は入浴中に襲撃を受けたと伝えられ、武器もなく反撃する余地も与えられず...無念の最期ですね。
当時長田氏の屋敷がある場所です。今は案内板しかありませんが...
1キロ離れている所の法山寺の中には御湯殿跡があります。当時義朝が使った浴室のことですよね。
ちょっと屋敷と離れすぎかと思いますが...井戸もちゃんと残されていて、なんとなくそれっぽいです。
法山寺入り口の乱橋は当時戦った場所とされています。
討たれた義朝の首はここで洗われたようです。
国に何かあると真っ赤に染まるという伝説がありますが、わりと浅い池なので...雨が少ない時期はどうなるでしょうね?
義朝の墓は近くの野間大坊の境内にあります。
一説では、義朝は最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだそうです。
そのため、今ここには多くの木刀が供えられています。(どうかこの木刀たちが届くように...)
当時、父の義朝がここで撃たれ、長兄の義平は都で処刑され、頼朝も流人として伊豆の蛭ヶ小島に追放されました。
余談ですが、配流地の蛭ヶ小島では今の韮山駅辺りで、北条氏邸跡や北条政子産湯之井戸などが残されています。
駅から既に雰囲気が伝わってきていますね。ここでは後北条氏の韮山城跡なども有名で、歴史好きが行ったら興奮するところです。
のちに、頼朝は北条政子と結婚し、ここから反撃して勝ち抜いて覇権を握り、鎌倉幕府を作り「鎌倉殿」になりました。
話を野間に戻します。覇権を握った源頼朝がその後に復讐しはじめ、父を殺した長田父子に磔の刑を命じました。
当時磔の松はもう根しか残っていませんが...
ここで書いている長田の辞世の句「ながらえし 命ばかりは 壹岐守 美濃尾張をば いまぞたまはり」ですが、これもストーリーが残っています。
実は長田忠致はその後、源頼朝の兵に加わりました。父を殺したものに対し、頼朝が当時「懸命に働いたならば美濃尾張をやる」と寛大な心で接し、忠致も懸命に働いたのですが、平家を破り覇権を取った頼朝が急に考え方を変え、忠致の処刑を命じ、更にその際に「約束通り、身の終わり(美濃尾張)をくれてやる」と恐ろしい発言を...
そのやり方はともあれ、義朝の無念はちゃんと晴らしたと思います。
せっかく野間まで来ましたので、この辺りの他のスポットも見てみましょう。
野間大坊の義朝のお墓に近くには、織田信長の三男である織田信孝のお墓も密かに佇んでいます。
少し離れた所にある安養院は、信孝が自害した場所と言われ、享年26でした。
本能寺の変で織田信長が消え、信孝は天下人争いに巻き込まれ、兄の信雄や家臣の秀吉と対立することになりました。
結局、織田家家督は信長の嫡孫・三法師が継ぐと定められて、信孝は信雄に切腹と命じられたが、裏では秀吉の内意があったと言われています。
同じく家臣に裏切られた源義朝とは、なんとなく似ている話ですね。
源義朝と長田忠致の故事にかけた創作かもしれませんが、信孝の辞世の句が「むかしより 主(しゅう)をうつみ(討つ身→内海)の 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」と言う説もあります。
もう少し足を延ばすと、海沿いに野間太郎というスポットがあり、きれいな伊勢湾が見えます。
ここはテレビでも紹介された人気スポットです。
こんな気持ち良い景色を見ると、野間に血の匂いが漂う過去があると想像しにくいですね。
平和な時代で生まれてきてよかったと感じます!
▼この記事を書いたひと
R&Dセンター 陸 依柳
撮影、お城、戦国、ICT、サブカルチャー...常に面白く、新しいものに惹かれるタイプです。地方の戦国イベントによく参加しています☆
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