社員がゆく彦根市を3倍楽しむ方法

彦根市を3倍楽しむ方法

滋賀県の北東部にある彦根市。駅から出てすぐ目に入るのは、井伊直政像です。

ここは、徳川四天王一人井伊直政から、17代=260年余りの長きに渡って受け継いだまちです。彦根三十五万石の住時を偲ばせる古い町並みがたくさん残されています。

それだけではなく、井伊家がこのまちに入る前、ここには1600年関ヶ原の戦いの西軍の中心人物である石田三成の佐和山城がありました。

名古屋市から電車に乗って1時間半のほどの距離です。情緒ある小路に歩いたり、佐和山でピクニックしたり、堀川沿いの椅子で新書を読んだりして、 おしゃれなお店もたくさんあり、歴女の集まりに最適な歴史のまちです。

実は昔の彦根城と目の前の彦根城はずいぶん違います。彦根城の外堀は現在まち中に隠していて、外堀に関する調査は今でも日々進んでいます。 古地図を片手に散歩しながら想像が膨らみます。

彦根について語りたいことは山ほどありますが、今回は深すぎる話ではなく、はじめての方でも彦根観光が楽しくなる小ネタについて書きたいと思います。

彦根城

彦根城のストーリーを知る

現在、日本の城の中で、現存する天守は12あって、その中で姫路城、松本城、犬山城、松江城、そして彦根城の5つが国宝に指定されています。

彦根城は、小高い独立丘陵に作られている「平山城」ですので、彦根駅からでも天守が見えます。山は彦根山または金亀山と呼ばれています。

城内の彦根城博物館は井伊家伝来の貴重な史料を展示しているだけではなく、建物自体は表御殿を復元したものです。

彦根城の一押は、まず表門橋方向に入る時の堀川です。ほとんどの観光者(特に外国人)がここで写真を撮っていますよっ!
なぜなんでしょうね?
たぶん、青空と青い堀川のコントラストだけではなく、堀川に常駐している愛らしい白鳥にも関係がありますね。(ここの白鳥はのんびりしている雰囲気で、とても癒されますっ!)

彦根城

現在130城を巡った私が、「どこが一番好きですか」と聞かれると、いつも「彦根城と松山城」と即答します。彦根城の遺構が綺麗に残されていて、天守がお嬢様にような華奢な雰囲気を醸し出しています。 また、ここが「リサイクルの城」と呼ばれていることはご存知ですか?
実は、石田三成の居城である佐和山城をはじめ、小谷城、長浜城、大津城などといった近隣の旧城郭の石垣や建造物が使われていて、たくさんの思い出が集約している場所です。

彦根城が「リサイクルの城」になったのは、当時一刻も早い築城が望まれたからです。

1600年関ヶ原の戦いで、石田三成が敗戦後、徳川四天王の一人、彦根藩の初代藩主の井伊直政は戦後この地の領主になりました。彦根城の築城を計画していましたが、関ヶ原の戦いで負った戦傷を悪化して亡くなりました。 その後、井伊直政の長男・井伊直継が慶長9年(1604年)に彦根城と城下町の建設を始め、20年近い歳月をへて完成しました。

 

お城に入り、まず「おおっ!」と思ったのが、重要文化財の天秤櫓です。
この天秤櫓は時代劇にもよく出ています。廊下橋を中心に左右対称に櫓が並び立つ姿が、天秤に似ていることからこの名が付きました。

実は、この櫓は新築したものではなく、長浜城から移築したものです。

彦根城

 

また、彦根市の天守も大津城から移築されたと言われています。

建築材を克明に調査した結果、旧天守はもともと5階4重と考えられますが、今は3階3重、つまり3階建て3重の屋根になっています。

比較的小型の天守閣ですが、屋根に美しい飾りがたくさんついていて、天守の中で「麗しいお嬢様」のような雰囲気です。

 

1868年明治維新が始まり、廃城令により全国の城が次々と取り壊されていく中、彦根城も解体危機に見舞われます。
そんな時、明治天皇の北陸巡幸に同行している大隈重信が視察に来た際、 その消失を惜しみ、明治天皇に上奏し取り壊しを免れたと言われています。

もし大隈重信の助言がなかったら、今の彦根城はなかったかもしれませんね。(さすがわが校長先生っ!)

彦根城

彦根城を訪ねるのに一番良い季節はいつですか?

秋でもお城がライトアップされますが、一番美しい季節はやはり春ですっ!
この時期の堀川で船に乗りながらお花見ができます。

彦根城

 

静かに夜桜を楽しむのも、趣のあることですね。

彦根城

 

更に、彦根城に登ったら、琵琶湖を眺めないといけません。なかなかの絶景でしょ。

彦根城からみる琵琶湖

 

彦根で一泊した方へのおススメ

リサイクル城を見た後、やはり元素材の出所を見に行ったほうが面白いですね。

同市の佐和山城は、駅の反対側にあります。そんなに高くないですが、登ったら彦根市を一望できます。
彦根八景の一つとも言われています。

佐和山城

同県長浜市の小谷山にあり、浅井家が3代にわたった居城である小谷城は、中世三大山城の一つです。戦国好き、体力に自信ある方はぜひ行ってみてください。

小谷城

同県長浜市の天下統一を果たした長浜城は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の出世城といわれています。秀吉は、30代後半に初めて城持ちとなりました。

ここの資材も小谷城から移築したり、琵琶湖の竹生島から運搬したりしていました。右の写真は竹生島に行く船に乗りながら見た長浜城です。

長浜城

長浜城

井伊家のストーリーを知る

彦根城に行ったことのある方は、大体この庭園に見覚えがあるでしょう。
ここは、玄宮園と呼ばれている、彦根城の北東にある大池泉回遊式の旧大名庭園です。

玄宮園は4代藩主井伊直興が江戸時代初期の延宝5年(1677年)に造営した庭園ですが、その後井伊家代々の増改築(特に第11代藩主・井伊直中の隠居屋敷としての改築)により、現在の形になっています。

玄宮園という名は、中国唐時代の玄宗皇帝の離宮になぞらえたものです。この庭園は中国湖南省洞庭湖の風光明媚な風景である瀟湘八景にちなんだ近江八景を模し、 中央の池に琵琶湖の竹生島や沖の白石を表現した樹木や岩石が配置され、情趣ある庭園となっています。

玄宮園

現在は、庭園部分を玄宮園、御殿部分を楽々園と称しています。

井伊直興亡き後、倹約令などもありましたが、楽々園はこれに影響されず、その大きさは現在の建物のおよそ10倍もありました。

現存する御書院はその際に新築されたものです。
 
 

玄宮園

この地震の間は耐震構造の建物であるため今日そのように呼ばれていますが、当時は茶の湯に用いる「茶座敷」でした。

玄宮園

井伊家の「風流」「風雅」はこの庭園でよくわかりますね。

彦根城方向に行く方が多いですが、実は駅の反対側の天寧寺と龍潭寺も訪れ甲斐があります。
龍潭寺は佐和山城に行く時、寄り道できますが、ここで天寧寺について紹介します。

天寧寺は井伊家11代藩主井伊直中が創建した曹洞宗のお寺です。
このお寺を建立した理由。井伊直中が、腰元若竹の不義をとがめ罰しましたが、その後相手が自分の息子とわかり、 自分の過失を認め、腰元と初孫の菩提を弔うために創建したといわれています。更に、京都の大仏師・駒井朝運に五百羅漢を彫らせました。

天寧寺

お寺の中に入ると、三方に埋め尽くされた「五百羅漢」が圧巻です。

ここの五百羅漢像は「亡き親、子供、愛しい人に会いたくば、五百羅漢にこもれ」と言われるほど、必ず自分の探し求める人の顔があると言われています。

本当に、一人一人の顔が違います。拝めていると、心が落ち着きます。

天寧寺

 

ここに木像日本一の布袋尊もあります。
お寺は高台にあるので、彦根市街を一望することができます。彦根城もバッチリっ!

天寧寺

天寧寺

ここの庭園は井伊直中の息子である井伊直弼の好みで作られた石州流庭園です。井伊直弼公供養塔もあります。

では、なぜ井伊直弼の供養塔がここにあるのでしょうか?

安政7年3月3日(1860年3月24日)に「桜田門外の変」がありました。
当時家督を継いだ、更に江戸幕府の大老に就任している直弼は「安政の大獄」などを起こし、反発や恨みを買いました。
直弼の行列が江戸城桜田門の近くに通る時、水戸藩、薩摩藩の浪士によって襲撃され、直弼は暗殺されました。

しかし、当時の政治情勢的に、暗殺ということを隠さなければならずないので、表向きには「病死」とせざるを得なかったです。その時、「暗殺」の証拠とされる遺品をここに埋めたと言われています。

政治家として知られている直弼は、実は井伊家で一番の文化人とも言われています。

十四男として生まれ、兄弟も多く庶子だったため世継ぎとなる可能性は低く、部屋住みの身となった彼は埋木舎と名付けた邸宅で学問や茶道、和歌、居合などに励んで暮らしました。
その埋木舎は今でも残されています。

更に、私達が知っている「一期一会」が世に浸透するきっかけになったのも、井伊直弼の茶書『茶湯一会集』です。
直弼は武家の茶湯である石州流に一派をつくり、独自の茶の湯の世界を展開しました。

近年、井伊直弼がいい人だったとの説がようやく表にでました。
藩主となった直弼も様々な藩政を改革し、誰よりも領民の生活に関心を持ち、名君と呼ばれました。今でも地元の人々に親しまれています。

本当に、強権のイメージが強い井伊直弼は、あくまでも大老という職責を担う人で、むしろ立場や身分に翻弄されたとも考えられます。

井伊直弼

ひこにゃんのストーリーを知る

ひこにゃん

彦根のあちこちで会える、国宝・彦根城築城400年記念祭のマスコットであるひこにゃんは可愛い姿で、いつも高い人気を博していますね。

ひこにゃんが井伊家のシンボルである赤備えの兜を被っているのは分かりやすいですが、では、ひこにゃんはなぜ「白猫」なのでしょうか?

実はひこにゃんのモデルは、江戸時代に彦根藩2代目藩主井伊直孝に縁ある1匹の白猫です。

ある日、直孝は鷹狩りの帰りにある粗末な寺の前を通りかかりました。門の所に一匹の白猫が手招きしているように、直孝を誘っています。そして直孝は寺の中に入ると、急に辺りが雷雨となったのです。
直孝は寺で雨宿りしているうちに和尚と知り合い、その後、寺は井伊家の寄進により立派な寺となり、井伊家の菩提寺となりました。

このお寺は、東京都世田谷区の豪徳寺です。直政や直孝、そして井伊直弼の墓もあります。
更に、境内には大量の招き猫が奉納されています。ここも、招き猫の発祥の地の一つとして有名です。もしかして、招き猫の起源は当時の白猫かもしれませんね。

豪徳寺

豪徳寺

しかし、ここの招き猫は小判を抱えていません。 なぜかと言うと、武家はお金に執着することを軽蔑していたため、小判を持たせていないのだと言われています。さすが武家の猫ですっ!

東京にいる時も、ぜひそこの井伊家のゆかりの地を訪ねてみてください。

豪徳寺

豪徳寺

彦根にはたくさんの歴史スポットがありますが、おしゃれなお店もたくさんできています。

ここの夢京橋キャッスルロードは、白壁と黒格子の町屋風に統一された、江戸時代の城下町の雰囲気です。 更に近年リニューアルした四番町スクエアは、モダンな建物と、ガス燈に照らされた大正ロマンのエリアになっています。

近江牛だけではなく、和菓子屋などもそろっていて、女子旅にも人気です。

歴史も残されて、そしてどんどん進化していく彦根市に、ぜひ春の散策に行ってみてくださいね~!

 


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