社員がゆく信長が燃やした「北ノ京」 一乗谷朝倉氏遺跡の冬と春

信長が燃やした「北ノ京」 一乗谷朝倉氏遺跡の冬と春

眠りから目覚めた巨大都市

福井市の南東約10キロの一乗谷にある朝倉氏遺跡。
戦国時代に朝倉氏五代が、103年間にわたって支配した、越前の国の城下町がここにありました。

朝倉五代(最後)当主朝倉義景は、将軍の「義」の字を与えられて一等官である左衛門督に任官し、名門と呼ばれるにふさわしい身分でした。

ここは長い間平和が続き、義景は文化人としての才能を発揮し、 更に応仁の乱により荒廃した京から多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため、一乗谷は城内1万人という戦国時代屈指の巨大都市になり、華やかな京文化が開花しました。
当時の京にすら勝る一乗谷を、人々はこう呼びました:北ノ京。

一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡

今回は冬と春の写真と共に、一乗谷の魅力を一緒に見に行きましょう。

一乗谷朝倉氏遺跡

JR九頭竜線の一乗谷駅から降りた風景です。

この冬の雪に眠る町と春の儚い桜景色が私は何よりも好きです。
更に、ここの夏には「越前朝倉戦国まつり」があり、秋の色とりどりの紅葉も仙境のように美しいです。

一乗谷朝倉氏遺跡

天正元年(1573年)8月18日、信長率いる織田軍は、柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み、居館や神社仏閣などを放火しました。この放火は三日三晩続き、この繁栄極まる巨大都市が灰燼に帰しました。

信長に燃やされて以降、一乗谷を任された柴田勝家はここに城を構えなかったため、やがて一乗谷も辺境の地となり、長い時間に地下に眠っていました。

一乗谷朝倉氏遺跡

 

「朝倉象棋」がある朝倉氏遺跡資料館

駅から徒歩5分のところに、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館に辿ります。

期間限定の無料遺跡周遊バスも時々出ていますが、徒歩でも苦にならない距離です。歩道がちゃんとありますので、雪の中でも徒歩で行けます。

資料館では朝倉氏遺跡の歴史や出土文物が展示されており、面白いものもあります。

一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡

大河ドラマ「真田丸」の第1話で、真田兄弟の将棋盤上には「酔象」という見慣れない駒が出てきました。
この「酔象」が初めて出土したのは、1973年のここです。
後ほど、福井県将棋連盟が「酔象」を使った古将棋の一つが「朝倉象棋」として普及しました。

「酔象」は王将のひとつ前に置く駒で、真後ろ以外全方向へ1マスずつ移動できますが、裏に成った時は「太子」になり、王将と同じ働きを持つ駒です。

なかなか奥深い遊び方ですね。私は大学時代に将棋部に入ったこともあるので、ルールを読むとワクワクして試したくなります。

 

資料館HP:戦国大名 越前朝倉氏のすべてがここに

 

完全な姿で発掘された復原町並

一乗谷朝倉氏遺跡

現在、一乗谷の武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまで町並がほぼ完全な姿で発掘されています。

一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡

京都の金閣寺・銀閣寺・醍醐寺三宝院、奈良の平城宮、広島の厳島神社と並び、国の三重指定(特別史跡・特別名勝・重要文化財)を受けています。 非常に歴史価値がある遺跡です。

復原町並は冬でもちゃんと歩きやすくように整備されています。

一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡

ここで発掘された塀の石垣や建物礎石をそのまま使い、柱や壁、建具なども出土した遺物に基づいて復原されているそうです。当時の生活を実体験できる場所です。
(入園料は驚くほど安く、申し訳ないので、つい募金箱に入れたくなります!)

一乗谷朝倉氏遺跡

 

朝倉初代孝景から5代義景まで

ここには初代朝倉初代孝景と5代義景のお墓もあります。

一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡

初代朝倉孝景は朝倉氏繁栄の基礎を作った人物です。

孝景はもともと斯波氏に仕えた戦国大名ですが、内紛に乗じて越前を領し、一乗谷に築城しました。 応仁の乱で斯波氏に代わって越前守護となり、戦国時代初期における下克上の先駆けです。

一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡

当時、孝景が公家領や寺社領の押領を頻繁に行ったため、公家や寺社にとって孝景は仇敵であり、「天下一の極悪人」だと記録されていることもあります。

とはいえ、優秀な軍略を持ち、連歌や和歌にも親しみ、文化人としての素養もあり、兵卒には非常に慕われた人物という説もあります。

以後、朝倉氏は2代氏景、3代貞景、4代孝景(初代と同名です)、5代義景まで約百年の繁栄が続きました。

一乗谷朝倉氏遺跡

 

No.1の見どころ:朝倉館跡と唐門

一乗谷遺跡の全体面積が278ヘクタールもあり、すべて国の特別史跡に指定されています。

中心部に位置するのは当主が居住した朝倉館跡です。

西、南、北の三方は土塁や堀に囲まれ、西方にある門が正門でしたが、現在は唐門が建てられています。

この幅2.3メートルの唐破風造り屋根の門は朝倉義景の菩提を弔うために建てた松雲院の寺門です。
かなり古い感じですが、朝倉時代の遺構ではないです。現在の門は朝倉家の三ッ木瓜の紋が刻まれていて、江戸時代中期頃に再建されたものです。

一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡

東側背後、西方に福井平野を一望できる標高473メートルの一乗城山に築城された一乗谷城があります。

しかし、この城は一度も戦闘に使用されることなく廃城となりました。

 

4つの庭園はすべて国の特別名勝

一乗谷朝倉氏遺跡

朝倉館跡の平坦部の面積は約6,400平方メートルあり、17棟の建築物がありました。それ以外、湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園、諏訪館跡庭園、朝倉館(義景館)跡庭園4つの日本庭園が国の特別名勝と指定されています。

庭園についてもっと詳しく:こちら

一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡

 

攻めてくる織田軍と朝倉氏の最後

永禄8年(1565年)に13代将軍・足利義輝が暗殺されると、その弟である義昭(義秋)が保護を求めて一乗谷を来訪しました。

当時の5代当主朝倉義景は義昭の来訪を歓迎しましたが、嫡男である阿君丸が急死した理由もあり、上洛戦の求めにずっと応じていなかったのです。この行動が後ほど朝倉氏の運命を大きく変えました。

やがて足利義昭が見切りをつけ、織田信長を頼って動座しようとしました。

一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡

永禄11年(1568年)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。

その頃の越前は、織田領である美濃と京都間に突き出された位置にあり、非常に邪魔な存在でしたので、義景を服属させる必要があります。

信長は義景の上洛拒否を口実に、反意があるという言いがかりをつけ、越前出兵しました。

戦争は一進一退の繰り返しですが、天正元年(1573年)8月8日、信長は3万の軍を率いて総攻撃を始めました。 信長の追撃は厳しく、朝倉軍は壊滅的な被害を受けてしまいました。

一乗谷朝倉氏遺跡

8月18日に、信長率いる織田軍は、柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み、居館や神社仏閣などに放火しました。この放火は三日三晩も続いたそうです。

その時、義景はかろうじて一乗谷に帰還しましたが、賢松寺にて従兄弟の朝倉景鏡に裏切られ、自害を遂げ、その生涯を閉じました。

一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡

 

明智光秀も朝倉家に仕えた?

実は、一乗谷から西へ3キロの福井市東大味町には、旧朝倉街道跡が残されています。

ここには明智光秀が祭神の明智神社が残されています。

流浪中の明智光秀が鉄砲指南役として朝倉義景に仕えた際に、東大味地区に屋敷地を与えられ居住したという説が残されています。娘の明智玉(のちの細川ガラシャ)もここに生まれたそうです。

史料的確認はできていないものの、地元の人が大事にしている歴史です。

私もまだ行ったことがありませんが、今度行く時は見てみたいですね。

 

 ▼この記事を書いたひと

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R&Dセンター
陸 依柳

撮影、お城、戦国、ICT、サブカルチャー...常に面白く、新しいものに惹かれるタイプです。地方の戦国イベントによく参加しています☆


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