東京オリンピックが行われる2020年の大河ドラマに、戦国武将・明智光秀を中心に英傑たちの活躍を描く群像劇『麒麟がくる』が決まりました。
明智光秀は一体どんな人なんでしょうか?今回は明智光秀に関連する観光スポットをまとめます。
実は「主殺しの逆臣」とされた光秀に関連する史料の多くが、抹殺や改竄されてしまったこともあり、本能寺の変だけではなく、光秀の前半生も謎めいています。 今回の大河ドラマでは、戦国初期の群雄割拠の戦乱のなか、明智光秀だけではなく、各地の英傑たちも登場する予定です。
日本史上最大な謎の一つ、本能寺の変。そして謎まみれの人物、明智光秀。その描き方がどうなるのか、楽しみですね。
天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃された事件です。
6月1日、織田信長は博多の豪商島井宗室を京都の本能寺に招待、自慢の名物茶道具を披露し、茶会後はそのまま本能寺に滞在しました。 嫡男の織田信忠は、もともと慰労された家康の接待役として堺を見物する予定だったところ、信長の上洛を聞いて、予定を変えて、数百の手勢とともに京都に向かい、同じく本能寺に滞在しました。
一方光秀は、信長に中国攻めの羽柴秀吉の援軍を命じられ、およそ1万3千の兵と共に京都にほど近い亀山城にいました。 6月1日の午後に明智光秀が突然に家臣たちに出陣を命じました。しかしその目的は中国ではなく、京都でした。
あまりに急な展開で、明智光秀はなぜ謀反を起こしたか?に対して、さまざまな説が浮かびました。現時点WikiPediaには51説あります。もちろん、中の一部は明らかに実像からかけ離れるものですが、ご興味がある方はぜひ下記のリンクをご参考ください。
本能寺の変の真相をめぐる諸説
8年前から積極的に大河ドラマの誘致活動を行っていた京都府の福知山市や亀岡市をはじめ、これから京都府と滋賀県の多くのゆかりの地はスポットライトを浴びることでしょう。
光秀の一生に沿って、メインスポットを見てみましょう。
明智光秀が生まれた可能性が高いと言われたお城です。
光秀の出身はまだ謎ですが、京都で禁裏御倉職を務めていた立入宗継が書いた「立入左京亮入道隆佐記」(「立入宗継記」)によると、「美濃国住人とき(土岐)の随分衆なり」と書かれてます。このことから、光秀は美濃源氏の土岐氏の流れの可能性が高いです。
山城と言っても標高178メートルだけで、大手門のところに模擬冠木門が復元されています。
(遅くなると真っ暗ですので、明るいうちにチェックしてくださいね。)
丹波統治の拠点として築かれた城です。「本能寺の変」の際に、光秀がここから出陣しました。
この城は山陰道の入口にあるため、豊臣秀吉や徳川家康にも重要拠点として活用されました。後ほどは藤堂高虎が縄張りを担当し、近世城郭として修築しなおされました。
また、亀岡市には明智光秀のゆかりの地が多く、ぜひ下記のリンクを参考して巡ってください。
(車がないといけないところもありますが、大河ドラマが始まったら便利になることを楽しみにしています。)
丹波国を平定した明智光秀によって築かれた城です。天守は1985年(昭和60年)に復元されたものです。現存のものは曲輪、石垣、井戸、銅門番所(移築)と門です。現在は続100名城に選ばれました。
また、福知山観光協会のイメージキャラクター「光秀くんとひろこさん」は「忍たま乱太郎」の作者で知られる尼子騒兵衛さんがデザインされたそうです。
比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得するため、信長の命によって光秀が築いたお城です。堀は琵琶湖につながっており、城内から直接船に乗り込めるようになっていました。
残念ながら豊臣秀吉に焼かれてしまいましたが、当時は宣教師のルイス・フロイスに「明智の築いた城は、豪壮華麗で信長の安土城に次ぐ、城である」と褒められたお城です。
ここの近くの西教寺には明智光秀とその一族が埋蔵されたお墓があります。
本能寺の変を受け、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍(約4万0000)が、6月13日(西暦7月2日)に織田信長を討った明智光秀(約1万6000)の軍勢と激突した戦いのところです。戦いは短時間で決し、軍勢に勝る羽柴軍の一方的な勝利に終わりました。
秀吉のその大強行軍は後世に「中国大返し」と呼び、光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」と言われています。
光秀の首塚は2つあります。
一つは京都府亀岡市の谷性寺にありますが、それは幕末の志士が鎮魂のために建てた供養塔であって、首が埋蔵された可能性は低いだそうです。
もう一つはここ、京都東山三条白川筋の光秀首塚です。もし粟田口で磔にされた光秀の首が本物なら、ここは本当の首塚だと言われています。(参考記事:明智光秀の首塚の歴史捜査 )
また、高野山奥の院と福井県福井市の明智神社には供養塔があり、京都府京都市の明智藪には胴塚があります。
2020年、「麒麟がくる」の大河ドラマ館には4ヶ所あります。
それぞれ明智光秀のゆかりの地であり、新観光パンフレットに、今まであんまり注目されていなかった寺社もたくさん取り上げられました。
大河ドラマ館の会期は全て2020年1月11日(土)~2021年1月11日(月・祝)です。期間限定ですのでお見逃さないでください。
更に、福知山城に隣接する佐藤太清記念美術館に「福知山光秀ミュージアム」がオープンします。
ホームページ
一年間ゆっくりと歴史の旅を楽しめそうですね。
本能寺の変は未だに謎が多いです。明智光秀は一体なぜ謀反を起こしたのでしょうか?。
「逆臣」の負の印象が強いのですが、いろいろな違和感を感じる部分もあります。もし明智光秀が本当に美濃源氏の土岐氏の流れなら、きっと教養の高い人でしょう。そのあと信長と足利義昭を繋ぎ、京都奉行の役割を担うのも、高い教養と実力を身に付けていたものと思われます。
信長家臣団の中で最初に「一国一城の主」になった光秀が、織田信長の臣下になったのはわずか14年間。譜代でもない光秀がそこまで信長の注意を引けるのは、よほどの知恵ものでしょう。秀吉でも20年間をかけたようです。
そして、「謀反人」に相応しくないのは、今でも光秀の領国であった坂本や亀岡、福知山などは光秀を慕っています。光秀の領国統治はたかだか数年程度なのに...
なにより、長年大河ドラマの誘致に頑張ってきた町と市民たちの思いがようやく実現できて、何年前に署名活動に参加した私も嬉しい限りです。
▼この記事を書いたひと
R&Dセンター 陸 依柳
撮影、お城、戦国、ICT、サブカルチャー...常に面白く、新しいものに惹かれるタイプです。地方の戦国イベントによく参加しています☆
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