謎の多い戦国武将、2020年「麒麟がくる」の主人公である「明智光秀」。 本能寺の変はよく知られていますが、その前半生については、信憑性の高い一次史料が少ないこともあり、謎に包まれています。
光秀は、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身です。土岐氏は清和源氏の末裔であり、美濃国の名族とも言えます。
このため、光秀は豊かな教養の持ち主と言われ、農民の身分で出世した豊臣秀吉とは歴然の差があるようですね。
では、光秀はどこで生まれたのでしょう。
美濃の国の領地を見てみると、現在の岐阜県に明智(知)という地名の場所が2つあります。
一つは岐阜県恵那市明智町であり、もう一つは岐阜県可児市広見・瀬田です。
この2ヶ所がもっとも有力視されていて「明智光秀ゆかりの地はここです!」とPRしています。
諸説ありますが、今回はこの2ヵ所がどのような場所なのか、現地に訪れてみたいと思います。
明智町は明知遠山氏のゆかりの地です。土岐明智氏と関係が薄いかも...との説もありますが、現地に一度見に行きたいですね。
明知城址や光秀幼少時にまつわる史跡がたくさん残されていて、また毎年5月には光秀公をしのぶ「光秀まつり」が催されています。戦国ファンの中でも知名度が高いです。
ここは明知鉄道の終点である明智駅。1985年から運営し始めた第三セクターの鉄道です。
最近人気の弁当列車などがよく話題になってます。季節に合わせて地元の食材を楽しんだり、お酒を飲んだりして、のんびりとする旅スタイルがおすすめのようです。
「移動手段」というより、「観光列車」のイメージですね。
いまはお手頃の値段でネーミングできます!
詳細は明知鉄道のホームページをご覧ください。
駅から出てすぐ「明智光秀公ゆかりの地」の石碑がっ!
のぼりもあります。「生誕の地」と書かれていますね。
大正の建物がたくさん残されており、「大正村」として有名です。
黒い羽目板の蔵が残っている大正路地など、レトロモダンな路地を気ままに散歩しながら撮影するなんて、女子旅に最適です。
...とはいえ、今日は光秀ゆかりの地を巡る予定ですので、大正村の観光はひとまず飛ばします。
観光案内所で地図をもらいに行く時、信長公への恨みを感じられる(?)「信長つくね」というおやつもゲットしました。これがなかなか美味しいっ!
光秀が大河ドラマ化したら、まちの活気あふれて、ワクワク感が出ますよね。
最初に行ったのは金幣社 八王子神社です。
鳥居をくぐって参道階段に登ると、町が一望できます。
唐門の後ろは入母屋造の拝殿です。現在の社殿は、延宝四年(1676年)旗本四代遠山半九郎伊次公によって造営されている社殿で、岐阜県の指定文化財です。
社殿や唐門には明知遠山氏の家紋の引両紋が付いています。
少し離れている所には今回の注目スポット:光秀手植の楓。その後ろの小屋は柿本人麻呂社です。 この楓は柿本人麻呂社を祀るために植えたのでしょうか。
...結構樹齢がありそうに見えますが、実は光秀が植えた楓は既に昭和39年(1964年)枯死してしまい、現在の楓はその時に植え替えたものだそうです。
ここから更に進むと、やや小高い所にある遠山家の菩提寺である龍護寺に着きました。
明知遠山氏と土岐明智氏の繋がりを書かれている家譜もあります。赤い色のは重要人物ですかね。江戸の名奉行「遠山の金さん」(景元)の名前もここに登場っ!
光秀公供養塔龍護寺の入り口にあります。
ここに出身地の石碑があります。
肖像画が置いてあるとお賽銭を入れたくなりますね。
このお寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。早速入ってみましょう。
歴史が古くても、中はとてもきれいに掃除されています。さすが殿様の菩提寺ですっ!
北辰妙見達磨が安置されている達磨堂もあります。
達磨堂の後ろに明智遠山氏代々の墓があります。
龍護寺から少し登ると、明知城跡に入ります。
岐阜県で最近大人気の山城である岩村城の城主遠山景朝の子である遠山景重の居城として築城され、遠山氏代々の居城でした。光秀がここで生まれたという説もあります。
かなり草ぼうぼうな感じですので、冬に来て正解でした。
お城の遺構はきれいに残されています。
標高530Mと書かれていますが、そんなに登っていない気もします。
この城跡の中には天神神社という小さな神社があります。
光秀が若い時に、京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、ここで学問に精進したと言われています。
かなり小さな規模の神社ですので、確かに静かに勉強できそうな...
少し離れている所にあるお牧の方の墓所ですが、たどり着くや否やこの「敵は本能寺にあり」の石碑に惹かれましたね。
隣には母が殺されたことが本能寺の変の原因の説明が書かれています。
一説によると、丹波攻略の時、光秀は土豪波多野秀治ら三兄弟の頑強な抵抗に遭いました。光秀は八上城を兵糧攻めした上で、和議を申し入れ、母のお牧の方のを人質に出して、波多野兄弟を説得し、安土城に連れて行きました。
ところが、織田信長は即刻波多野兄弟を切腹させ(一説は処刑)、城に居残る波多野の家臣たちは激昂、人質になっている光秀の母を殺したそうです。
このため信長に深い怨恨を抱いた光秀は、三年後に本能寺の変を惹起した。
石塔には当時の世評を配慮してか、「南無阿弥陀如来」以外何も書かれていません。
鎌倉時代に明智城とともに築かれた「千畳敷砦」は元々戦いのために作った守りの場所です。今は公園になっています。
高台にあるので、町全体をきれいに一望できます。
ここには、「光秀公産湯の井戸」が残されています。大きな井戸ですね。
帰り前には大正村浪漫亭のお土産を見てみましょう。
新しい光秀グッズもたくさん発売されています。これから食事の限定メニューもあるらしいです。
これからどのような新しい企画が出てくるか、楽しみですねっ!
続いて巡ってみたいのは可児市の明智荘です。ここの「光秀出身の地」の可能性が高いので、戦国ファンがよく訪れる場所になっています。
この辺りは花フェスタ記念公園が有名ですが、今残されている明智光秀関連スポットは明智城跡と城下の天龍寺です。
本丸跡や曲輪・土塁などの遺構が残されていて、自然の地形を生かした典型的な中世の山城です。
明智光秀がここで生まれたという説もあります。光秀は11歳で城主となり、斎藤義龍に攻められ落城するまでの30年近くをこの城で過ごしました。
城の中は遊歩道が整備され、市民に親しまれるハイキングコースになっています。
明智光秀の家紋の「桔梗」を使って名付けた「桔梗坂」。美しいお名前ですね。
眺望の景色もなかなかですっ!その日はちょうど夕日を楽しめる天気でした。
他に幼少時代の明智光秀と関わっているスポットもありますので、ここでまとめています。
ご興味がありましたら、ぜひ現地に足を運んで、一度見に行ってください。
美濃源氏である土岐氏によって築かれた居館で、土岐氏発祥の地とされています。今は明智光秀の像が建てられています。
光秀は「多羅城」で生まれたという記録もあります。
明智光秀の母は明智家当主「明智光綱(光隆)」の妹で、石津郡多羅の進士信周の嫁いできて、兄に子がなく、自分の次男である明智光秀を兄の養子として渡したという説もあります。
山崎の合戦で羽柴秀吉に討たれ死んだのは光秀の影武者「荒木山城守行信」です。これに恩義を感じた光秀は荒木の「荒」と深い感謝の「深」で「荒深小五郎」と名乗り出し、関ヶ原の戦いで東軍につこうとしたが途中川で溺れこの地に埋葬されたと言われています。
様々な所を巡りましたが、光秀公はいったいどこで生まれたでしょう?
実はまだはっきり「ここだ」と確定できる一次史料が出ていないです。2020年の大河ドラマ化に伴い、新しい発見があるかもしれません。
しかし、戦国ファンとして、「うちが出身地」とPRしている所が増えるとともに、戦国武将を偲ぶ場所が増え、関連のグッズや企画が増えるのは何よりも楽しいことですね。
光秀公も本能寺の変を起こした自分が、今のような人気者になっているのを知ったら、さぞかし喜ぶでしょう。
▼この記事を書いたひと
R&Dセンター 陸 依柳
撮影、お城、戦国、ICT、サブカルチャー...常に面白く、新しいものに惹かれるタイプです。地方の戦国イベントによく参加しています☆
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