社員がゆく「麒麟がくる」明智光秀ゆかりの地 比叡山坂本へ

「麒麟がくる」明智光秀ゆかりの地 比叡山坂本へ

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公 明智光秀は謎の多い人物です。
本能寺の変で、謀反の逆臣のイメージが強いのですが、多くの功績も上げて、戦国ファンの中でも人気武将の一人ともいえるでしょう。

面白いことに、光秀の大河ドラマ化に対して、比叡山延暦寺の公式アカウントがいち早く応援のメッセージを呟きました。
もしかして、織田信長に焼き討ちされた比叡山延暦寺にとって、信長を打ち取った光秀は「お仲間」なのでしょうか?

比叡山

比叡山

延暦寺の門前町である坂本は光秀と縁が深い場所です。焼き討ちされた後の延暦寺の寺領は、光秀に配分され、光秀によって居城坂本城が建てられました。

今回は坂本と延暦寺を巡りながら、その謎めいた歴史を整理して行こうと思います。

 

今回のランチはここ!本家 鶴㐂そば

坂本に美味しいお食事がたくさんありますが、外せないのがこの手打ち蕎麦本家 鶴㐂そばです。

店の建物は国の登録有形文化財に指定されている、築130年の入母屋造りです。
歴史ファンがワクワクする環境です。この雰囲気でいただく食事は味が一層引き立ちます。

本家 鶴㐂そば

本家 鶴㐂そば

食べ終わったら、いざ延暦寺へGO!

 

いざ比叡山延暦寺へ

坂本

滋賀県大津市の坂本は比叡山を挟んで京都市の東隣に位置し、琵琶湖に面していたことから、東国や北陸を結ぶ要衝でした。

ここには明智光秀のゆかりの地が多くあります。
1571年に築城した「坂本城」や境内に光秀一族の墓がある「西教寺」など、門前町として高い歴史価値を有する場所です。

歴史の初心者にとって、最も見逃せないのはやはり世界文化遺産に選ばれた比叡山延暦寺です。最近外国人観光客も多く、パンフレットも多言語対応されています。

では、さっそく山に上がってみましょう。

 

公共交通を使って延暦寺に行くのは

  • 琵琶湖側から 坂本ケーブル
  • 京都側から 叡山電鉄+八瀬ケーブルロープウェイ
  • 京都側から 比叡山ドライブバス
の3つの方法がありますが、一番おすすめはもちろん「長さも、眺めも、日本一。」と言われる坂本ケーブルです。

坂本ケーブル

1927年3月15日より営業開始の坂本ケーブルは歴史が長いだけではなく、全長2,025mで日本一長いケーブルカーです。車内からのびわ湖の眺めはまさに絶景です。

坂本ケーブル

約11分間で、山頂に到達!比叡山は標高848mで、山頂は麓より気温が5~6℃低く、夏はかなり快適な場所です。

ケーブルカーから降りると琵琶湖が目の前に広がります。

琵琶湖

アクセスについて詳しくはこちら: 比叡山の交通案内

 

世界遺産の比叡山延暦寺のここがすごい

比叡山延暦寺

延暦寺は延暦7年(788年)に最澄が創建した寺です。日本の国を鎮め護る寺として、朝廷から年号[延暦]を寺号に賜りました。

ここでの厳しい修行は12年間もかかり、昔から多くの高僧を輩出しました。

特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など、日本仏教各宗各派の祖師方はここから出ました。 まさに日本仏教の母山ですね。

今でも、先人たちの修行の跡は寺内のところどころに見られます。

親鸞聖人修行地

親鸞聖人修行地

 

比叡山の焼き討ちは3回もあった

比叡山の焼き討ちと言えば、織田信長を思い出すのが一般的ですが、実は延暦寺は3度も焼かれています。

  • 足利義教が行った比叡山攻撃とその後の根本中堂自焼(1435年)
  • 細川政元が行った比叡山焼き討ち(1499年)
  • 織田信長が行った比叡山焼き討ち(1571年)
因みに、炎上と言えば、近くの三井寺(園城寺)は歴史上に9回も焼かれ、こここそ焼き討ち被害No.1かもしれません。

戦国時代、延暦寺が宗教施設から軍事施設にだんだん変わったのは、3度の焼き討ちが大きく影響しているのでしょう。

 

1回目 足利義教と根本中堂自焼

比叡山延暦寺

最初に延暦寺を攻撃したのは、室町幕府の6代将軍・足利義教でした。
延暦寺を制圧できなかった義教は、1435年2月山門使節4人に上洛を命じましたが、彼らは義教を疑ってなかなか上洛しませんでした。このことを理由に、義教はその4人を捕らえ首をはねました。

これを聞いた延暦寺の山徒は激昂し、抗議のため根本中堂に火をかけ、24人の山徒が焼身自殺しました。
当時、その炎が京都からも見えるほど大規模に焼失した事件だったそうです。

その苛烈な措置の影響もあり、義教死後、延暦寺は更に武装を強化し、僧兵数千規模の独立状態になりました。

 

2回目 細川政元の比叡山焼き討ち

比叡山延暦寺

1499年に室町幕府は混乱に陥って、将軍家が二つに分裂した状況になりました。
それぞれ11代将軍・足利義澄を擁立した細川政元勢力と10代将軍足利義稙の勢力でした。

その時、延暦寺は足利義稙を支持し、幕府の権力争いに介入したのです。

交通の要衝にある延暦寺はもちろん敵軍の細川政元に狙われました。
この焼き討ちによって、根本中堂を初めとして、大講堂や法華堂など、主要な施設は全て焼失し、延暦寺は再び大きな打撃を受けることになります。

 

3回目 織田信長の比叡山焼き討ち

比叡山延暦寺

信長の比叡山焼き討ち事件は、無残に僧侶たちを殺害したイメージが強いかもしれません。 実は、その頃の比叡山延暦寺は、既に多くの僧兵を抱える武装勢力になっていました。しかも、朝廷や鎌倉幕府を圧迫できるほどの、強大な権勢とも言えるでしょう。

1571年に、信長が浅井・朝倉連合軍と戦っていた時、浅井・朝倉連合軍は比叡山に立てこもり、籠城しました。
信長は延暦寺に浅井・朝倉軍を追い出すように要請しますが、延暦寺に拒否されます。

その拒否をもって、信長は延暦寺を敵対勢力だと捉え、更に京都に近い延暦寺の立地を考慮し、比叡山の軍事的役割を徹底的抹殺しようとしました。

比叡山延暦寺

この戦いはルイス・フロイスの書簡にも記載されている前代未聞の大事件でした。
9月12日の早朝に、信長は根本中堂を初め、主要な建物を全て焼き払い、僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ね、数千人を殺戮したと言われています。

この頃から延暦寺は衰退したそうです。
また、この事件によって、日本では欧米諸国よりかなり先行して政治と宗教を切り離す政教分離が実現しました。

 

明智光秀と比叡山焼き討ちの関係は?

光秀が主君の信長に対し謀反を起こした「本能寺の変」の理由の中で、「暴君討伐説」という説があります。
要するに、光秀が信長の比叡山焼討に反対し、信長の殺戮に不満を持ち、最終的に謀反を起こしたとするものです。

比叡山延暦寺

近年、光秀が比叡山東麓の雄琴城主・和田秀純に宛てた書状が発見され、光秀は焼き討ちの為の準備を周到に整えていたことが発見されました。

反対するどころか、その書状では光秀の不満は感じられず、光秀が信長に比叡山焼き討ちを諌言したという説も出てきました。

比叡山延暦寺

実際に、明智光秀は信長の比叡山焼き討ちの中心実行部隊にいて、大きな武功をあげました。

その功績の褒美として、比叡山のふもとの地である坂本を含める滋賀郡(約5万石)が与えられました。更に、光秀は織田家臣の中で初めて居城の築城を許された人物です。
後ほど光秀が坂本城の築城を始め、地域の復興に尽力を注ぎました。経典や高僧を「独断で助けた」など、比叡山延暦寺を手厚く保護した話もあります。

延暦寺にとって、光秀はいったい敵なのか?味方なのか?一概には言えない謎の点が多いですね。

比叡山延暦寺

 

比叡山延暦寺の三つの地域

比叡山は大きく東塔、西塔、横河の三つの地域に分けられ、これらを総称して比叡山延暦寺と言います。

比叡山延暦寺

三塔地域の間はシャトルバスも運行しています。横川地域まで行く場合にはバスフリーパスがお得ですが、東塔と西塔の間は普通料金でもかまいません。

今回は、東塔から西塔まで徒歩で移動しましたので、その2つのエリアをメインに紹介します。

比叡山延暦寺

 

東塔地域

三塔十六谷の中心で、総本堂の根本中堂をはじめ、大講堂、法華総持院東塔など重要な堂塔が集まっています。

比叡山延暦寺

現在の根本中堂は、徳川幕府の3代将軍・家光によって再建されたもので、1953年には国宝に指定されています。
根本中堂の中には1200年間に一度も消えることなく輝き続けている「不滅の法灯」がありますが、今の灯は焼き討ち後の再建時に立石寺から受けた分灯だそうです。

比叡山延暦寺

 

西塔地域

比叡山延暦寺

壮大な東塔に対し、西塔は美しい杉木立の間から小鳥のさえずりが聞かれる静寂な場所です。
ここには釈迦堂を中心に椿堂、にない堂などがあります。

 

横川地域

三塔の中で、一番北のエリアにある横川地域は、慈覚大師円仁によって開かれ、源信、親鸞、日蓮、道元などの名僧が修行に入ったそうです。

 

比叡山の麓の見どころ

比叡山の麓の坂本に戻たら、まだまだ見どころがたくさん待っています。
一日で回りきれないかもしれませんが、光秀関連のいくつかのスポットをピックアップします。

 

坂本城跡

明智光秀が築城した城です。

城内に琵琶湖の水を引き入れた水城形式で、高い天守閣を持つ豪壮な城でした。
イエズス会宣教師のルイス・フロイスも「名城安土城と並び称される建物」と褒めていました。

今は遺構がほとんど残っておらず、坂本城跡の碑があります。

坂本城跡

坂本城跡

 

 

明智塚

1582年の本能寺の変の後、羽柴秀吉軍の攻撃により坂本城が落城しました。今その城内と推測される場所に光秀の供養塚と伝わる明智塚があります。

明智塚

明智塚

 

西教寺

聖徳太子が創建されたと伝えられている天台真盛宗の総本山で、明智光秀の菩提寺です。

織田信長による比叡山焼き討ちの際に焼失しましたが、後に明智光秀が寺の復興に援助したと言われています。
境内には光秀の内室熙子や一族の墓があります。

総門は坂本城城門を移築したもので、鐘楼堂の鐘は陣鐘です。天正10年にこの世を去った光秀は6年前に亡くなった内室熙子や一族の墓とともに祠られています。

西教寺

 

日吉大社

およそ2100年前の崇神天皇7年に創祀されたと言われています。 全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮です。

比叡山焼き討ちの時、坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達や住民たちは日吉大社の奥宮に逃げ込みましたが、日吉大社も焼かれました。

日吉大社は関西屈指の紅葉名所で、秋の時期がおすすめです。

日吉大社

 

穴太衆積み石垣

坂本には比叡山の土木営繕の御用をつとめていた穴太衆が住んでいました。

織田信長の比叡山焼討ち後、燃え尽きた山坊の石垣を崩していなかったですが、この石垣の堅牢さを知った信長は、後の安土城築城に際して穴太より石工を呼び寄せ、丈夫な城壁を作らせました。

穴太衆が作った石垣は、自然石の個性を生かし、巧みに組み合わせたものです。その技術が「穴太衆積み」と呼ばれ、戦国時代、安土桃山時代に作られた城郭石垣に多く使われていました。

穴太衆積み石垣

穴太衆積み石垣

 

国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている坂本には、約50ヵ寺の里坊があります。
穴太衆の自然石、サツキ、紅葉、苔...ここの四季はそれぞれ美しい景色があり、寺や庭園の見どころが尽きません。 スケジュールを立てなくても、散歩しながら歴史を感じる事ができます。

京都からのアクセスもいいですが、名古屋からも遠くない比叡山坂本に一度行ってみませんか。



 ▼この記事を書いたひと

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R&Dセンター
陸 依柳

撮影、お城、戦国、ICT、サブカルチャー...常に面白く、新しいものに惹かれるタイプです。地方の戦国イベントによく参加しています☆


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