社員がゆく山中鹿介幸盛のゆかりの地まとめ

山中鹿介幸盛のゆかりの地まとめ

山陰地方の尼子氏の家臣である山中幸盛、通称鹿介。「尼子十勇士」の筆頭であり、また、尼子武将の中で特に智勇・忠義に優れた持ち主で「山陰の麒麟児」と呼ばれています。

山中鹿介と言えば、島根県安来市を思い浮かぶ人が多いのですが、安来市以外にも幾つか見逃さないスポットがあります。

とてもドラマチックな人物ですので、その一生がいつか大河ドラマになれば、多くの人がその根性に心を打たれるでしょう。

 

山中鹿介の大ファンとして、今回は私見を挟みながら書きます。できるだけ草ぼうぼうの遺跡ではなく、ちゃんと「見どころ」のある観光地を取り上げます。
「ここにも関係があるの?」と思うスポットもあるかもしれません。

最近、私は山陰地方にはまっています。史跡が綺麗に残されている場所が多く、素晴らしい土地ですので、ぜひ足を延ばしてもらえると嬉しいです。

 

若き時代:島根県安来市

以前にも尼子氏と山中鹿介ゆかりの地の山城に行きましたという記事を書きましたが、今回は山中鹿介視点でピンポイントにピックアップします。

 

山中鹿之介生誕地

まずは(伝)生誕地の出雲国富田庄(現在の島根県安来市広瀬町)です。

幸盛は次男でしたが、病弱な兄の代わり山中家を継ぎ、山中家に代々伝わっている三日月の前立に鹿の角の脇立のある冑を譲り受け、のちの「鹿介」となりました。

山中鹿之介生誕地

 

月山富田城

安来の一番の見どころは尼子氏の居城である月山富田城です。
長年に渡り、尼子氏はこの辺りで毛利軍と何度も激突し、最後兵糧攻めで攻められた尼子義久は毛利軍に降伏して幽閉され、鹿介は随従できず、ここで尼子家再興を決意しました。

月山富田城

5月と9月末の写真を比較して見ると、景色がかなり違うので並べてみました。

月山富田城

月山富田城

月山富田城

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った鹿介の像です。
まさに「七難八苦」と言える一生ですね...

月山富田城

 

安来市の他の鹿介関連のスポットも幾つかあります。

山中鹿介一騎打ちのところです。

山中鹿介一騎打ちの地

巌倉寺内の山中鹿介の供養塔。

山中鹿介の供養塔

山中鹿介の供養塔

少し離れたところには山中鹿介が馬で滝から飛び降りたと伝わる蹄の滝槍砥石もありますが、車がないとなかなかアクセスしにくいです。

更に詳しくまわりたい場合はぜひ安来市立歴史資料館に寄ってみてください。
良い情報やかっこいいお土産がたくさんゲットできると思います!

安来市立歴史資料館

安来市立歴史資料館

 

尼子再興運動

主君を失った鹿介の尼子再興運動は概ね3回に分けられます。

その範囲が広くて、関わった地も多いのですが、山陰地方は元々毛利氏、大内氏、そして尼子氏が繰り返し戦さをした場所です。一言「ここはこういう場所」と語れなく、残されているものも多くないですが、これこそ山陰地方の醍醐味ですね。

 

第一次尼子再興運動:島根県松江市

松江城

尼子氏滅亡後、鹿介は牢人となり、各地の尼子遺臣らを集結させて密かに尼子家再興の機会をうかがいました。忠臣の鑑ですね...

尼子の本拠地である月山富田城の奪還を図り、その時鹿介が抑えた拠点は「末次城」でした。この城は既に存在しておらず、その場所は現在の国宝松江城になっています。

今のこの松江城は関ケ原の戦いの後で作られたので、当時と全然関係ないですが、この「立地」はとても価値があるものです。

松江城

少し時間を巻き戻して話します。かつて「末次城」の近くには、「尼子十旗」と呼ばれる城の第一とされる堅城白鹿城がありました。毛利氏が尼子氏に侵攻した際真っ先に攻めたのはこの城です。

なぜかと言うと、この白鹿城は、宍道湖の北岸に位置し、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上でも重要な拠点です。

難攻不落の月山富田城が最後兵糧攻めで負けたのは、この補給路の争奪戦(白鹿城の戦いと弓浜合戦)に負け、完全に孤立化されたからです。

そのため、尼子再興運動で領国を奪還する時も、鹿介はまずここを狙いました。

鹿介まずは白鹿城の向城である真山城を攻略し、そして末次城を押さえてから、山陰地方の勢力拡大を図っていました。この補給路がいかに大切かはすぐにわかります。

山中鹿介幸盛のゆかりの地

 

弓ヶ浜半島の海岸

現在の白鹿城も真山城もあんまり整備されておらず、初心者に厳しいですが、弓ヶ浜半島の海岸は、観光がてらぜひ回ってみてください。
米子城から見る弓ヶ浜半島の海岸もなかなか美しいです。

弓ヶ浜半島の海岸

地の利を抑えて、月山富田城の攻略に取りかかり、優勢になり勝つことが目前にあるものの、その後味方の救援に向かったり、身内に寝返られたりして、結局鹿介は月山富田城を攻略できず、3年間の長期戦の末、第一次尼子再興運動は尼子再興軍の失敗で終わりました。

 

第二次尼子再興運動:鳥取県

尾高城

第二次尼子再興運動に関わった地域も広いのですが、メイン舞台は鳥取県と言ってもいいでしょう。

第一次尼子再興運動は失敗し、末吉城に籠城した鹿介が吉川元春に捕らえられ、尾高城へ幽閉されました。

幽閉された鹿介はここで自分を傷つけて、赤痢という伝染病に偽って何十回も厠に通い、結局看守の兵士を疲れさせて、ここから脱出できたという逸話もあります。

夏になると遺構が分かりにくいですが、大型な堀を体感できるお城です。

尾高城

 

鳥取城

鳥取城と言うと「鳥取の飢え殺し」という羽柴秀吉の兵糧攻めが有名ですが、実はここも山中鹿介と少し関係があります。

山中鹿介幸盛のゆかりの地

鳥取城

鳥取城

尾高城から脱出し、尼子再興運動を再開した鹿介は但馬国から因幡国へ攻め込み、因幡国を足がかりに、伯耆・出雲方面への勢力の拡大を計画していました。

その時、この毛利方の国人・武田高信の居城である鳥取城を攻め落とし、山名豊国を入らせました。

しかし、せっかく頑張って落とした城なのに、山名氏がすぐに毛利方の懐柔策で寝返り...わずか1ヶ月余りで、鳥取城は毛利氏に奪い返されてしまいました。
(ん...味方を見極めることが大事ですね...)

 

若桜鬼ヶ城

山名氏の支援を受けられなくなった鹿介はしょうがなく近くの若桜鬼ヶ城を攻略し、拠点をここに移しました。

若桜鬼ヶ城

若桜鬼ヶ城

若桜鬼ヶ城は、因幡国から但馬・播磨へ向かう山間交通路の結節点に位置しており、敵対する山名氏の本拠である但馬を避けつつ、播磨から京都へ向かうルートを確保するという目的でしたが、毛利軍の総攻撃により周りがどんどん攻め落とされ、若桜鬼ヶ城も最後孤立化されました。

写真を見ると、「交通の要衝」とすぐわかりますね。

山中鹿介幸盛のゆかりの地

2回目の尼子再興運動もここで失敗に終わりました。

 

第三次尼子再興運動:岡山県

上月城

暫く織田軍の下で尼子家再興を目指す鹿介は、明智光秀の軍に加わったこともあり、但馬や丹波で活躍しましたが、その後秀吉軍の下で上月城を攻略し、上月城の城番になり、ここで尼子家再興を図って行きました。

上月城に入った後の尼子再興軍が度々勝利を収めたが、織田軍の中でも裏切りがでました。三木城の別所長治が信長を裏切、毛利勢に加わり、上月城も包囲されました。

当時、秀吉軍は救援に向かおうとしたのですが、信長から三木城の優先を命じられたなどもあり、結局、上月城の尼子再興軍は捨て駒になり、残された尼子氏は切腹、多くの武将は処刑、鹿介は人質として備中松山城に在陣する毛利輝元の下へ連れられました。

 

備中松山城

現存12天守の中では唯一の山城、現存天守でもっとも高い天守、日本三大山城の一つ、「天空の城」...
様々な異名を持つ備中松山城に、鹿介は辿り着くことができなかったです。

備中松山城

備中松山城

城を目前としたのに、途中の備中国合(阿井)の渡で、高梁川を渡っている時に毛利氏家臣により、不意打ちに討たれ、踏ん張って応戦したけど、深手を負い惨殺されました。

阿井の渡し

この殺害は毛利輝元が命じたことなのか、家臣が無断で実行したものなのか、或いは信長側についた足利義昭が命じたことなのか、その真実は分かりません。

しかし、鹿介は尼子復興をあきらめていなかったので、毛利家に降伏したのでしょう。もし殺されていなければ、歴史もまた違う展開になったのでしょうか。

 

阿井の渡しの墓(胴塚)

近くの曹洞宗観泉寺の住職珊牛和尚がその遺体を引き取り、埋葬されました。
現在の阿井の渡し場に、鹿介の墓所(胴塚)があり、近くの観泉寺境内でも墓石があります。

山中鹿介幸盛阿井の渡しの墓

山中鹿介幸盛阿井の渡しの墓

 

広島県福山市鞆の浦:静観寺山門前の墓(首塚)

岡山県の少し隣ですが、広島県福山市の、坂本龍馬ゆかりの鞆の浦にも鹿介のお墓があります。

鹿介の首は備中松山城に在陣していた毛利輝元が実検をした後、鞆城へ送られ、その時、鞆にいた最後の将軍・足利義昭も首実検したと伝えられています。

山中鹿介幸盛静観寺山門前の墓

山中鹿介幸盛静観寺山門前の墓

山中鹿介幸盛静観寺山門前の墓

 

鳥取県鳥取市:鹿野町幸盛寺内のお墓

更におすすめしたいのは、鳥取市鹿野町の幸盛寺内のお墓です。

幸盛は次男ですので、尼子氏の重臣である亀井氏の養子になり、亀井姓を名乗った時期もありました。

鹿介が殺された後、鹿野城主であった亀井茲矩が鹿介の菩提を弔うため、鹿野山幸盛寺を立て、鹿介の遺骨の数片が集められ、境内に墓を作りました。

鹿野町自体もとてもきれいな街ですので、ゆっくりと歴史散歩をお薦めします。

山中鹿介幸盛鹿野町幸盛寺内のお墓

山中鹿介幸盛鹿野町幸盛寺内のお墓

山中鹿介幸盛鹿野町幸盛寺内のお墓

 


そう書きますと、寝返りの話ばっかりで、人間不信になりそうですが、これも毛利家の「策」の上手さ故です。

戦国時代は誰も自分の家の存続、自分の利益を守ることを最優先にし、策士として有名な毛利元就を筆頭に、毛利家はきっと人間のこの心理を活用できたのでしょう。

その反面、山中鹿介はまさに「悲運の英雄」ですね...

 

鹿介がなくなった後、尼子再興運動もなくなり、尼子遺臣団は解体し、一部の人は亀井家の家臣団として再編成されました。 亀井家は幕末まで安定していたので、残された人は近世大名へ...鹿介と比べてだいぶ運が良いですね。

鹿介も謀殺されなかったら、人材として優遇され、違う結末になるのでしょう。もしかしたら、全く違う歴史が生まれるたのかもしれませんね。

 

▼この記事を書いたひと

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R&Dセンター 陸 依柳

撮影、お城、戦国、ICT、サブカルチャー...常に面白く、新しいものに惹かれるタイプです。地方の戦国イベントによく参加しています☆

 

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