社員がゆく大谷吉継ゆかりの地 敦賀市の楽しみ方

大谷吉継ゆかりの地 敦賀市の楽しみ方

豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主刑部少輔の大谷吉継が近年NHK大河ドラマ『真田丸』にも登場し、 治部こと石田三成が無二の親友として描かれ人気を博しました。

今回紹介するのは、吉継が12年間統治した越前国敦賀郡、今の福井県敦賀市です!


大谷吉継は(ざっくり言うと)どんな人

近江(現在の滋賀県)出身大谷吉継は、天正始め頃から羽柴秀吉の小姓となり、 天正5(1577)年の播磨攻略、天正6(1578)年の三木城攻め、天正13(1585)年の紀州征伐、 天正14(1586)年の九州征伐など、様々な功績を立てました。

天正17(1589)年に越前国敦賀郡2万余石を与えられ、吉継は敦賀城主となりました。
吉継が入封した敦賀は日本海交易の要港、北国の物資の集散地であり、秀吉直系の家臣に掌握させることが重要です。 敦賀は吉継支配の下、北国から畿内への輸送の拠点、 出兵時の物資の調達拠点として大きな機能を果たしました。

加藤清正や福島正則などの戦前線の「武断派」と対照的に、吉継は石田三成や小西行長のような政務を担う「文治派」です。

その後の天正18(1590)年の小田原征伐や奥州仕置、文禄元(1592)年の朝鮮出兵など、後方支援や「計数の才」に長けた吉継は三成とともに奉行として重用されて、 秀吉の天下統一事業の主力として活躍しました。

大谷吉継関連スポット

慶長3(1598)年8月に秀吉が死去した後、武断派は徳川家康を擁立して、対する文治派は家康の独断専行に対して危機感を感じ、二派の対立がのちの関ヶ原の戦いになりました。

とは言え、文治派の中でも、吉継は最初は天下の情勢を見極めて徳川家康に接近しました。

しかし、吉継が家康の上杉討伐のために3,000の兵を募り、途中で石田三成の居城である佐和山城に立ち寄った時、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられました。
「勝機なし」と吉継は何度も説得しましたが、結局決意が固い三成を説得できず、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の西軍に参陣しました。
失明した吉継は輿に乗って指揮し奮戦するが、小早川秀秋らの離反で敗戦になり、家臣・湯浅隆貞の介錯で、関ヶ原の戦い唯一切腹した武将として生涯を閉じました。

その時、隣で布陣した西軍の平塚為広も東軍に討たれて、死ぬ前に吉継に辞世の句「名のために 捨つる命は惜しからじ つひにとまらぬ 浮世と思へば」を送りました。
その返句として、吉継は「契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」と返しました。

大谷吉継関連スポット

吉継にまつわる逸話も多いです。例えば、吉継が自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹したが、その2年後、秀秋は狂乱してなくなりました。

史実とは考えにくいですが、後世から見る吉継の人物像が少しわかるかもしれません。興味がある方はぜひwikipediaにチェックしてみてください。


大谷吉継ゆかりのスポット

吉継公が大好きの私にとって、敦賀は安らぎをもたらす愛おしい場所です。
休日用事がなければ、よく敦賀に散歩したり、泊まったりしています。

史跡巡りとして残されてるものが少ないですが、下記のスポットで戦国の面影が発見できるかもしれません。


吉継のグッズをゲットしましょう!

みなとつるが山車会館

氣比神宮例大祭で巡行する勇壮華麗な山車の展示施設です。
もちろん、山車の中でも吉継が登場しています。

みなとつるが山車会館

吉継の武者人形と敦賀市の公認キャラクター「よっしー」が入口に出迎えしているだけではなく、中の吉継コーナーの「恋文ノート」も長年の歴女たちの思いが綴られています。

みなとつるが山車会館

みなとつるが山車会館


敦賀市立博物館

昭和2(1927)年に竣工した旧大和田銀行本店の中にある博物館です。

昭和初期の貴重な銀行建築であり、敦賀の歴史を象徴とも言えます。平成29年、国の重要文化財に指定されました。レトロな雰囲気を満喫できますね。

敦賀市立博物館

敦賀市立博物館

敦賀市立博物館


敦賀城の城跡を探してみましょう

吉継の居城 敦賀城は、蜂屋頼隆が築いた城を水城として大改修したものです。

「関ケ原の戦い」後は結城秀康によって代官が派遣されていましたが、1616年(元和2年)に一国一城令により廃城となり、遺跡がほとんど残されていません。

面影が確認できるのは、下記のスポットだけです。


敦賀市立西小学校

敦賀西小学校正門の真横には敦賀城の案内碑が残されています。

関ヶ原の戦いの後、敦賀城は東軍に引き渡され、結城秀康によって代官が派遣されていたが、後ほどの一国一城令により破却された。
廃城以降、敦賀城跡は藩の役所とお茶屋(陣屋)となって城の遺構は失われ、やがて陣屋跡もなくなり、小学校となりました。

敦賀市立西小学校


来迎寺

幕末に水戸藩の天狗党の烈士が大量に処刑されたお寺ですが、ここに敦賀城の城門が移築されています。

来迎

寺の中では吉継が寄進した木製の腰高障子(福井県指定文化財)も現存しています。

来迎寺の木製の腰高障子

来迎寺の木製の腰高障子


真願寺

敦賀城の乾門跡に建てられた寺院です。境内には敦賀城の礎石が残されています。

真願寺

真願寺


八幡神社

敦賀城の欄間や礎石などが残されています。吉継が奉納した石鳥居や石灯籠がここで見れます。

八幡神社

八幡神社

また境内にある「敦賀郷土博物館」には、石井右近宮司が長年かけて数多く収集した刀剣や古文書、書画等歴史・民俗・文化に関する史資料が展示されています。 吉継の肖像画もあります。

八幡神社


吉継ゆかりの寺社仏閣を巡りましょう

常宮神社

朝鮮の役において、豊臣秀吉は吉継の見事な軍監ぶりを「百万の大軍の軍配を預けてみたい」と褒め讃え、 この役で持ち帰った「朝鮮鐘(国宝)」は、慶長2(1597)年吉継の手で常宮神社に奉納されたそうです。

常宮神社

常宮神社


永賞寺

吉継が再興した曹洞宗の寺院です。

永賞寺

吉継は慶長5(1600)年に行われた関ヶ原の合戦で西軍に与した為、敗れ自刃しましたが、 その後の領主も寺領が安堵し、慶長14(1609年)年に吉継の供養塔と伝承を持つ造立の層塔を立てました。

吉継が生前より菩提寺としており、今でも毎年9月に供養祭が行われます。

永賞寺


観光で楽しむ 敦賀の一押しスポット

春は桜、夏は花火、秋は紅葉、冬は雪。
敦賀の四季はそれぞれの味わいがあり、いつに行っても楽しい行事が待っています。

故人を偲びながら、港町の敦賀の魅力あふれる景色もぜひ体感してもらいたいです。


敦賀駅交流施設オルパーク

敦賀駅交流施設オルパーク

敦賀駅交流施設オルパーク

駅と直結している、東京大学教授で建築家の千葉学氏が設計した交流施設です。
2014年オープンした後、敦賀のおしゃれ度が更にアップしました。
ここでは観光インフォメーションやレンタサイクルもありますので、旅前の支度はここで済ませましょう。


松本零士ワールドの名場面たち

敦賀市の中心商店街(シンボルロード)に、漫画家松本零士先生の『銀河鉄道999』の像が16体、『宇宙戦艦ヤマト』の像が12体、計28体が並んでいます。

敦賀の松本零士ワールド名場面

敦賀の松本零士ワールド名場面

松本零士先生は敦賀の出身ではないですが、この像は平成11年(1999)に、敦賀港開港100周年の記念として設置されたそうです。

昔、敦賀は全国有数の鉄道と港のまちでした。
明治時代に日本海側初の蒸気機関車が敦賀を走り始め、また、東京の新橋駅と敦賀の金ケ崎駅を結ぶ欧亜国際連絡列車が運行したこともあります。
更に、ロシアのウラジオストクまでの直通定期船もあり、大陸への窓口とも言えますね。


日本三大鳥居がある氣比神宮

大宝2(702)年建てられた北陸道の総鎮守です。
高さ約11mの大鳥居(重要文化財)は春日大社(奈良県)・厳島神社(広島県)と並ぶ日本三大木造大鳥居の一つです。

氣比神宮

松尾芭蕉もここに訪れたことがあり、境内には松尾芭蕉の像と句碑があります。

氣比神宮

氣比神宮


レトロな博物館通り

旧大和田銀行本店を使っている敦賀市立博物館や酒造などの歴史的な建物が残る商店街です。かつての敦賀経済の中心地とも言えます。

敦賀の博物館通り

最近おしゃれなランチ・カフェや雑貨屋も増えました。情緒のある街並みですね。

敦賀の博物館通り

敦賀の博物館通り


難関突破と恋の宮の金崎宮

金崎宮は金ヶ崎城跡の麓にある神社で、縁結び・恋愛成就のパワースポットとして知られています。
ここには約1000本のソメイヨシノがあり、4月上旬の「花換まつり」が縁結びの祭りとして、乙女たちの憧れですね。

金崎宮

金崎宮

「花換えましょう」と声を掛け合い、神社で受け取った桜の小枝を交換しあう、とてもロマンチックな行事です。

金崎宮

金崎宮

山の上の敦賀湾を一望する金ヶ崎城跡は国の史跡に指定されています。
昔、ここは後醍醐天皇の皇子を守って新田義貞が足利軍と戦った地で、戦国時代に織田信長が越前朝倉を攻める時に、挟み撃ちの難を逃れた場所として知られています。

金崎宮

金崎宮


旧敦賀港駅ランプ小屋

旧長浜駅舎と並び国内における最古の鉄道建築物のひとつで、1882(明治15)年頃に建てられたと言われています。

旧敦賀港駅ランプ小屋

明治末期から昭和初期にかけて、東京の新橋駅と結ぶ欧亜国際列車がこの金ケ崎駅まで運行され、更にここからウラジオストク航路に乗り継ぎ、ウラジオストクからはシベリア鉄道を経由してヨーロッパまで行けます。
当時の燃料を保管する油庫として建てられたのがこの赤煉瓦倉庫でした。


再現した旧敦賀港駅舎

かつての「欧亜国際連絡列車」の発着駅としての敦賀港駅舎を再現したものです。

当時、日本からヨーロッパまでは船なら1ヶ月もかかるけど、欧亜国際連絡列車とシベリア鉄道経由のルートなら、東京からパリまではわずか17日間しかいらないですので、多くの人々かここからヨーロッパに旅立ちました。

旧敦賀港駅舎


人道の港 敦賀ムゼウム

1920年に「ポーランド孤児」、1940年に「命のビザ」を持ったユダヤ人難民が上陸した日本で唯一の港がここ、敦賀港です。

ここでは、杉原千畝が発給した"命のビザ"関連史料が展示されていて、敦賀の「人道の港」一面が見れます。 推測によると、約6000人のユダヤ人難民がこのビザで救われたのです。
また、この建物は、旧大和田別荘洋館を模したそうです。


赤レンガ倉庫

1905年紐育スタンダード石油会社によって建てられたこの2棟モダンな赤レンガ倉庫、福井県内でも有数のレンガ建築物として、国の登録有形文化財に登録されました。
数年前までは昆布貯蔵庫としても使用されていましたが、2015年10月に観光施設に生まれ変わりました。因みに、写真は改築前の様子です。

赤レンガ倉庫

今の赤レンガ倉庫の中には、敦賀の全体像が見れる「鉄道と港のジオラマ」や地元の食材を楽しめるレストランが多数あります。

赤レンガ倉庫

赤レンガ倉庫

また、港の近くに、旧敦賀倉庫株式会社の現役の倉庫群が残っています。
とても昭和レトロの雰囲気漂う場所です。

赤レンガ倉庫


日本三大松原の一つ 気比の松原

静岡県の三保の松原と、佐賀県の虹の松原とと並ぶ日本三大松原の一つです。長さ約1.5km・広さ約40万平米、赤松、黒松約17,000本が生い茂る国の名勝地です。

ここはかつては氣比神宮の神苑でしたが、織田信長によって没収され、江戸期には小浜藩の藩有林となっていました。
白砂青松の海水浴場は夏の一押しです。遊歩道も整備されているので、季節ごとに変わる美しさの中で森林浴を楽しめます。

気比の松原

毎年8月ここで行われる「とうろう流しと大花火大会」は、海と空に光と音の豪華絵巻が繰り広げられます。 約20万人の県内外の観光客が集まり、日本海側最大級のスケールと言えます。

敦賀市には1月に400年の歴史を持つ綱引き、9月に6基の豪華絢爛な山車巡行がある北陸随一の氣比神宮例大祭・敦賀まつりなど、 他のイベントが祭りも多数あります。
昔から国際的な港として、とても開放的な雰囲気がある町ですので、いつに行っても楽しめますね。

敦賀の祭り


 ▼この記事を書いたひと

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R&Dセンター
陸 依柳

撮影、お城、戦国、ICT、サブカルチャー...常に面白く、新しいものに惹かれるタイプです。地方の戦国イベントによく参加しています☆


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